ポストさんてん日記

放射線・エネルギー・環境・化学物質・食品などの情報をアーカイブとして整理すると同時に、徒然につぶやいています。 リンクはご自由に。

(メモ)デマが作られ拡がっていくデング熱での実例

[ 2014/09/24 (水) ]
荻上チキ氏の論説をアーカイブさせて頂きます。
デマが作られ拡がっていく実例を今回のデング熱で示しているのと同時に、典型的・普遍的な部分も多く、勉強になりました。
(おまけで、3年前の論説も)


(前略)

情報不足によることもあってか、いくつかの陰謀流言が発生していた。その流言は、次のような理屈で成り立っていた。

  • これまでもデング熱の症例はあったようだ
  • ならば、今年だけこれほど騒ぐ必要はないはずだ
  • にもかかわらず、なぜこれほど大きく取り上げられるのか
  • きっと、何かの大きな政治的意図が背景にあるに違いない
  • たぶん、その意図とはこういうもの(デモつぶし、内閣批判からのスピン、被曝の影響隠し、他多数)だろう
こうした陰謀流言には、まず下記の前提が抜け落ちていた。

(中略)

この陰謀流言が最も拡散されたブログ記事は、9月24日現在で4.4万もの「いいね!」を獲得している。著名な芸人が言及したことも含めて話題となった。

(中略)

このエントリが掲載される前日の4日には、「デング熱騒動は捏造だった?!(魚拓)」というタイトルの記事が掲載され、それから「デング熱報道で隠したかったものとは?(魚拓)」が掲載されたという順番だ。2エントリの間でも、疑問符をとり、陰謀への確信を強めていることが分かる。

この記事、および拡散された陰謀流言に対し、複数の記事が問題点を指摘した。検証系ブログのうち、最も読まれたのは、「デング熱も怖いけどこんなデマが拡がるのも怖い。去年のデング熱の国内での感染者数はゼロだよ!」(6日)および「デング熱関連のデマ拡散中――信じたい記事を疑うことも必要です」(9日)という記事だろうと思う。いずれも、実際のデータ、国内感染の意味などを簡単に説明しているものだ。

こうした批判のコメント等を受け、批判対象となったブログはその後、「間違えましたので訂正します」と応答するのではなく、むしろ自説を補強するため、エントリを立て続けに掲載していった。流言拡散の場面でよく見る、「批判を受けて意固地になる」典型的なパターンにも見えるが、さらにブログの記事傾向を見ると、政府批判をしたいというバイアスが強いうえに、もともと陰謀論と親和性が高いブロガーのように見える。以下が、その後の記事の流れ。

(中略)

今回の件に限らず、流言を拡げた人がその後、批判を受けてより意固地になるケースが少なくない。自説を補強するための論拠を探し、同調者と共鳴しあって先鋭化することもしばしばある。

こうした現象を見ると、「中和の技術」という社会理論を思い出す。人は、自分が間違ったことをしている人間だと思い続けることにストレスを感じる。そこで人はしばしば、自分の罪悪感を緩和してくれるロジックに飛びついてしまう。そうやって、認知的なモヤモヤを「中和」してくれる技術には、いくつかのパターンが見受けられる。簡単に言えば、弁解や弁明、居直りや逆ギレのメソッドというのは、似通っているよね、というお話

もともと「中和の技術」の典型パターンとしては、(1)責任の否定(2)加害の否定(3)被害者の否定(4)非難者への非難(5)高度の忠誠への訴え、が列挙されている。非行研究が発端だが、流言拡散を批判されたときの反応にひきつければ、つぎのような感じになる。
  • (1)責任の否定
    「ただRTしただけで、なぜ責められなくてはならないのか」、「もし本当だったら大変だから拡げた。むしろ<そういう不幸が実際にはなくてよかった>で済ませるべきだ」
  • (2)加害の否定
    「間違いであったとしても、良かれとしてやったのだ」、「良い話なら拡散してもいいではないか」、「誰に迷惑をかけたというのだ」
  • (3)被害者の否定
    「誤解される方が悪いのだから、普段の行いを正すべきだ」、「相手にはこういう問題もある。そんな相手をなぜ庇うのか(お前は○○信者か」
  • (4)非難者への非難
    「お前は間違いを犯したことがないのか」、「自分を批判する暇があるならもっと有意義なことに時間をつかえ」、「言い方がむかつく。お前は何様なのだ」、「批判しているのは<工作員>や<御用>の類で信用できない」
  • (5)高度の忠誠への訴え
    「自分たちが騒いだことが問題提起となったのだ」、「自分を批判するような言説は、まわりまわって言論弾圧や自粛につながるからやめるべきだ」
批判時の反応にはこの他、以下のようなパターンがあると感じている。
  • (6)"部分的な正解"へのこだわり
    「こういう事実はかすっていた。ならば、ほぼ正解と言っていい。だから拡散の意義はあった」
  • (7)自浄作用の強調
    「後で自浄作用が働くはずだから、予防として、確かめずにRTすること自体を責めるべきでない(つまり自分を責めるべきでない)」
  • (8)被害性の強調
    「少し間違えたからって大げさだ。私は傷ついた。私こそが新たな被害者である」
  • (9)ヒロイズムの強化
    「圧力には屈しない。これだけ必死で批判したがる人がいるのは、不都合な勢力がいる証拠」
  • (10)派閥化
    「否定陣営には問題がある。彼らの言葉に耳を傾けてはいけない。助け合いながら、<私たち>こそが正しいと言い続けよう」
もちろんパターンに当てはまるからと言って流言というわけでもない。非難者の行為や論理が問題となることもある。しかしそれにしても、こうした事例は実にたくさん見かけられる。

一般には、流言」は根拠があいまいなままに情報が広がることで、対してデマゴギーの略であるデマ」は政治的意図を持って作為的に流される嘘であると区別される。でも、その情報を受け取り、それを信じて伝達する過程においては、それが「流言」なのか「デマ」なのかという区別はあまり意味を持たない。というのも、一定以上の拡散をみたニセ情報は、たとえ当初は「デマ」として流されたものであっても、それをそれぞれの<善意>に基づいて流す人の方が多くなるからだ。

同様に、拡散した元の人も、当人の自意識としては「善意」や「真実」のためにやっているのであり、「政治的意図」をもっているわけではないと捉えているケースも多いだろう。ある意味では、「聞く耳を持つ」からこそ、「中和の技術」を用いたレスポンスが見られるようにも思える。ただいずれにせよ、流言の検証や中和の試みの最中にあっては、相手を説得することが困難で、よりこじれるような場合にもしばしば遭遇する。そもそも検証作業自体が、流言の拡散よりも遥かに手間と時間と労力がかかるなか、説得話法にも注意が求められることを考えると、本当に骨が折れるようなあと痛感している。

(後略)



以下は、3年前の論説です。参考として。
「SYNODOS JOURNAL 荻上チキ氏」 2011/5/20
なぜ、今、流言研究か

(前略)

そこで、2011年3月11日に東日本大震災が発生してから約一カ月間、私は自分の運営するブログ「荻上式ブログ」にて、ウェブ上に広がる流言やデマについてのまとめ記事を書き続けました。私自身は、大学院生時代に流言やデマに関する社会理論を少し学んだ程度で、流言についての専門的な研究者ではありません。ただ、空いている時間を、簡単な検索とまとめ記事の作成に費やしただけです。そして、私のブログを読んでくれた記者の方から多くの問い合わせがあり、新聞、ラジオ、雑誌、テレビといったメディアを通じて、「これとこれは流言・デマです」といった具体的な情報を発信させていただくこともできました。

これからはますます、流言やデマに対してリアルタイムで応答する必要性が高まっていくでしょうから、流言を研究するだけでなく、それに応答していく専門家の役割も、重要になることと思います。そうした役割を担う人が今後生まれ、またその仕方がより洗練されたものになっていくためにも、この本が活用されることを願っています。

◇流言とデマの違い◇
ところで、これまで「流言」と「デマ」という言葉を並べて用いてきました。両者は厳密には区別されます。流言は「根拠が不確かでありながらも広がってしまう情報」のことであり、デマは「政治的な意図を持ち、相手を貶めるために流される情報」のことです。ただ、現在の日本では、多くの方は両者をあまり区別せずに用いているので、私もメディアなどで発言する場合は、わかりやすく「デマ」と統一して両者を論じることもしばしばあります。

私自身は、流言とデマの区別は学術研究には有用ですが、臨床的な分析や対処の際には、実際はそれほど重要ではないと思っています。流言やデマが広がってしまうとき、多くの人は「なぜそんなウソをつく人がいるんだ」と、個人の「意図」を問題にします。しかし、流言やデマが広がるのは、それを信じた人・広げた人が多くいるからです。ですから、それを信じてしまう集団的な心理や情報環境にこそ注目すべきで、創作者・発信者の「意図」をあまり重要視する必要を感じないからです。

それに、「悪意の有無」といった基準では、流言とデマを初期段階でしか区別できません。最初の一人がデマのつもりで流したものでも、広がっている過程で情報元、ソースが明示されなければ、それは流言と基本的に変わらないわけです。また逆に、広がってきた流言をあえて悪意を持って流す人もいるでしょうから、デマと流言の明確な区別というのは難しい。ですから、「流言かデマか」という議論は、本書ではいったん脇におき、あくまで流言やデマへの実践的な対処法のみを共有できればと思います。

本書で重要視しているのは、流言やデマを流してしまう人の心理の分析ではなく、「そういう人」が一定数、必ず発生してしまうことを前提に、その影響をいかに最小化するのかという、課題解決型の思考です。つまり、デマゴーグを叩くための「悪者探し」「責任論」ではなく、流言やデマを減らすための「対処法探し」「原因論」が大切だということです。その作業はひるがえって、意義のある情報の拡大を最大化するための環境づくりへとつながっていくものです。

(後略)



【メモのメモ】
「アゴラ」 2014/9/11 「デング熱デマ騒動」にみるネットリテラシーの重要さ
[ 2014/09/24(水) ] カテゴリ: ニセ科学,デマ,怪論文 | CM(0)
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