ポストさんてん日記

放射線・エネルギー・環境・化学物質・食品などの情報をアーカイブとして整理すると同時に、徒然につぶやいています。 リンクはご自由に。

“放射線”と“化学物質”と“リスク”についての雑感

[ 2013/02/04 (月) ]
 食品中の化学物質の安全性について勉強した結果をシリーズに纏めましたが、リスクに関する人々と科学者の格闘の歴史みたいなことで、化学物質放射線に似ている面と、放射線に特有の面があると思いましたので、雑感的に書いてみます。

まず、“化学物質”の“リスク”に関する歴史ついて、簡単におさらい

1.科学者のスタート
 中世から科学の世界では常識のパラケルサスの説です。
全てのものは毒である。毒でないものはない。適正な用量が毒と薬を分ける。
All substances are poisons; there is none which is not a poison. The right dose differentiates a poison and a remedy.
                             パラケルサス(Paracelsus、1493-1541)

2.人々のスタート
 「日常食べるものに危害があってはならない」という素朴な信念がスタートで、規制として最初に登場するのが、1958 年に施行された米国のデラニー条項で、ゼロリスクを定めたものとして知られています。(1996年に廃止)
ヒトや動物に発癌性を示す食品添加物は安全とは見なさないとする考え方

3.科学者・専門家のアプローチ
 デラニー条項は、「当然のことではないか」と思う人が大半だと思うが、条項施行後、この考え方を適用する際に、様々な問題点が生じてきた。人や家畜で発生した食中毒事件の原因究明、あるいは、分析技術や動物試験の進歩によって、普段食べている食品の中にも天然の毒性物質・発がん性物質がたくさん入っていることが分かってきた。(環境中の水にも空気にも)
 リスクをゼロとするための管理は非現実的であるという考え方が広まってきて、発がん性物質をどの程度食べて、どの程度危険なのか、確率はどの程度なのかということを考えないといけない状況になったのだが、危険か安全かという二者択一を迫る人々「100%安全でなければ、安全とは言えない!」という人々に対して説得性を欠いていた。
 科学者は人々がなぜ「合理的」な行動を取らないのかに頭を悩ませた。そして、様々な手段による説得を試みたのである。
 そこで、リスク認知という学問分野が生まれ、次のステップとして科学者はリスクの比較を人々に提示し理解を求めた。あるいは、リスクに比べて得られる便益の大きさを示し、その意思決定が社会にどれだけのメリットがあるかを説明しようとした。
4.科学者・専門家が信用を失う?
 人々は科学が生み出した利便性を享受する中で、「科学は万能である」という神話を抱いている反面、「現代社会における核兵器や環境汚染物質など、科学は人類に不幸をもたらした」という反感を抱いている。
 化学物質に対する科学者の判断は信用されず、それどころか、科学者そのものが信用を失う結果を招いてしまった面もある。
5.リスクコミュニケーション
 そのような不信の時代を経て、科学者はあることに気づきます。ひょっとしたら、これは、“リスク”の考え方自体が違うのではないかと。そこで、リスクコミュニケーションなのです。
リスクコミュニケーションについて、纏められるほどの理解はしていませんので、ここまでとします。

 “放射線”と比べるとどうでしょうか?似ている面が多い一方で、特有の面もあるようです。上記の各項目に合わせて整理してみました。かなり乱暴なこじつけもあり、さらに個人的にはこう理解しているという事も混ぜこぜになっていますが、ご容赦ください。

“放射線”の“リスク”に関して、似ている面と特有の面
 “リスク”以外のことも書いてありますが、

1.科学者のスタート
 意見を合わせないのが学者の本性だそうで、ECRRとかチェルノブイリ膀胱炎とか、色々ありました。流石に、今では下火になっていますが。
 パラケルサスの説にあえて引っかければ、ホルミシス効果仮説がありますが、放射線防護にはホルミシス効果を考慮しないことが現時点のコンセンサスとのことです。 
2.人々のスタート (こういう人も居たレベルの話も含めて) 
 日本人が、“リスク”で考えることに慣れていないのはリスクを理解する基礎知識が教育されていないからだとか、専門知に対する過大な期待を持つ背景としていつでも答えが1つに定まるものとして理科を教えている(イギリスでは違う)という指摘があり、うなずけます(出典はこちらに)。また、世界で唯一の被ばく国であることや第五福竜丸事件などは、放射線のリスク理解にはあまり役に立たなかったようです。
 初期のクライシスコミュニケーションで、政府も科学者・専門家もメディアも人々の不安感に対応できなかった上に、科学者・専門家が違うことを言うので混乱が長引きましたし、食品の放射能問題や広域瓦礫処理問題などでゼロリスク志向が根深いこともはっきりしました。リスクに関連するメディアの特性に関しても多くの問題がありました。それらに共通するのは、危険か安全かという二者択一をせまる意識かと。この辺りは色々とあるようで分析は識者に任せます。
 以上は概ね“化学物質”と共通ですが、(自然放射線や過去のフォールアウトなどがあるものの)放射線リスクに対して慣れていないこと、放射性物質はどのような少量でも測れてしまうということ、微量でも量に応じた害があるとするLNT仮説で放射線防護を考えること、などが“放射線”に特有かと思います。
3.科学者・専門家のアプローチ
 初期以降にも一部の専門家?が(チェルノブイリとの比較などで)定性情報だけを強調するような煽りを続けていました。一方で、“化学物質”での歴史と同様なことを、短期間のうちにボランティア的に行ってくれた多くの方々や、怪しい科学情報に対してリソースを割いて反論された方々のお陰で、基本的な知識や定量的な実態に対する理解が進みました。人々がより良い判断ができるようにと労力を割いてくれた科学者・専門家に感謝です。
 (“嘘は三種類ある。嘘、真っ赤な嘘、そして統計だ。”と言われています。)不確実性や誤差といった統計の基礎的な知識がリスクを理解する上で大切だと思いますが、そこに気付いていない人々が多いせいもあり、易しく説くのはかなり難しいようです。“リスク”の理解に必要な共通知識なので、学校教育で行うのが良いのかも知れません。以上は概ね“化学物質”と違いはありません。
 放射線のリスクを理解するためには、DNAの損傷・修復線量率効果などの知識が必要ですが、人々に伝わり難いですね。リスクコミュニケーションの役割になるのでしょうか。伝わり難いためか悪用されて、DNAの損傷だけを“危険煽り”に使った人達も居ましたが。
4.科学者・専門家が信用を失う?
 “化学物質”での歴史と同じようなことが起きました。御用学者とかの言葉が流行ったとおりですが、大勢としては是正されたのではないかと(批判を続ける人は残るでしょうが)。副作用として、御用扱いを忌避して黙ってしまった科学者・専門家が多かったとの話は良く聞きます。現在では危険煽り系の科学者・専門家は信用を失った(失いつつある)ようですね。
5.リスクコミュニケーション
 住民の自主的な活動である(と理解してますが) ETHOS IN FUKUSHIMA へのネット上での誤解や誹謗など、日本での“放射線”特有の現象なのかと思います。

【個人的メモ】
 直線閾値なし問題への取り組みは“化学物質”のほうが“放射線”より先だと思っていましたが、違うようです。中西準子氏のHP 雑感614-2012.11.7 の『放射線リスクとどう向き合うか』から当該部分を引用します。

直線しきい値なしモデルは放射線から出発し、化学物質のリスク評価に取り入れられた。放射線のマネをしたようなものだった。しかし、その評価結果をどう活用するか、さらに言えば、どの程度のリスクを許容し、受け入れるかという検討の点では、化学物質の方が進んでしまったような気がしている。

 【関連エントリー】 “しきい値なし問題”の考え方(理解のためのメモ)

【関連エントリー】
食品中の化学物質の安全性 一覧ページ

現在のネット主張の一つにLNT仮説からの将来予想があるようですが

以下、長くなりましたので、単独エントリーに切り出しました。
[ 2013/02/04(月) ] カテゴリ: リスク認知など一般的な | CM(0)
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