ポストさんてん日記

放射線・エネルギー・環境・化学物質・食品などの情報をアーカイブとして整理すると同時に、徒然につぶやいています。 リンクはご自由に。

日本人のリスク観についての“なるほど”

[ 2012/03/14 (水) ]
 リスクコミュニケーションなどについて、少しづつ勉強していこうと思っています。
 まずは、日本人のリスク観について“なるほど”情報をピックアップしてみました。
 以下の引用元は、全て、放射能放射線
 ●リスク・コミュニケーションを対話と共考の場づくりに活かす
 に掲載の記事からです。お礼申し上げます。
 (太字加工はブログ主による。)

1.マスコミの問題

●日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)会長 武部俊一さん インタビュー
(一部のみ引用)

 リスクで考えるということは科学・技術報道にあたる基本の作法なのですが、ジャーナリストの姿勢としてまだ十分に身についているとはいえません。リスク報道に関する「行動基準」もありません。ジャーナリズムはニュースになるということを一番においています。リスクを敏感にとらえることは大きなニュースになりますが、それがすぎるとセンセーショナリズムにおちいります。
 リスクを受け入れる側には「リスクを教えてくれる/リスクから守ってくれるのは『お上』の仕事」という考え方があり、そのような土壌はジャーナリズムにもあります。そのため、何かあると「お役所の責任」という伝え方になってしまうのです。

 リスクは個人によってちがっています。個人で判断することが必要です。行動の選択肢をふやすためのデータを出すのがジャーナリストの役目です。

 いまから20年ほど前、アメリカで開催された環境報道のシンポジウムに参加したとき、環境保護庁(EPA)から、「環境報道を説明する」という小冊子が配られました。そのなかでジャーナリストの特性
  「科学よりも政治にニュース価値を置く」、
  「安全よりも危険にニュース価値を置く」、
  「危険か安全かの二つに単純化する」、
  「記者は真実ではなく、見解を取材する」、
  「記事を特定の個人の話に仕立てる」
と紹介していました。ニュース報道は意見を書かず事実を伝えるものです。しかし、これらの点はリスク取材・報道の欠点をよく突いているものとして、「リスク取材の戒め」としています。



2.リスクを理解するための基礎教育の問題

●秋田県立大学 金澤伸浩准教授
(一部のみ引用)

 化学物質BSEなど、ささいなことが社会問題化し、風評被害や無駄な社会コストが生じるケースが繰り返されています。それはなぜなのかを考えてみますと、「科学リテラシー」の不足のほか、「リスク」で考えないことによって、怖がる必要のないことに怖がったり、自分でリスクを判断しないで、他人に判断を委ねてしまう状況があるからではないかと思います。

 なぜそうなってしまうのかを掘り下げてみますと、確率としての「リスク」という考え方自体を日本人が理解していないのではないか。さらに考えていくと、日本の教育で、「リスク」について教えられていないからではないかと考えました。
幼稚園以降の教育内容を定めている文部科学省の学習指導要領を調べてみると「リスク」の概念は出てきません。ただ、学習指導要領の今回の改訂で、高校の工業に「環境工学基礎」が新設され、ここで初めて「リスク」という用語が登場しています。この現状では「リスク」がわからないのは当然ではないかと思います。

 一方、政府は食品や原発の関係などではリスクコミュニケーションをしています。リスクコミュニケーションのガイドも出されていますが、うまくいっていない。原因については色々指摘されていますが、リスクを理解する基礎知識が教育されていないことが原因にあるのではないか、つまりリスクの基礎を教える教育の普及がブレークスルーになるのではないかと考えています。


●横浜国立大学環境情報院特任教授 浦野紘平氏(エコケミストリー研究会代表) インタビュー
(一部のみ引用)

 誰かが決めた「正しい」を教えるのではなく、事実を伝えること、事実の原因は科学的にわかることとわからないことがありますが、そのような中で、理性的に判断していくことの重要性を伝えていくべきでだと考えています。
 「統計や事実」と「自分の生活」をどうつなげていくかが教育なのです。いくら統計や事実を知らせても個人のことまでわからない。自分の生活とつなげて確かめる能力、考える能力をどうつくっていくかがリスク教育の基本だと思っています。


●東京大学大学院総合文化研究科 藤垣裕子 教授 インタビュー
(一部のみ引用)

 例えば、これはイギリスの教科書 ですが、高校生を対象として、「科学者の意見はいつでも一つに定まるわけではない」ことを教えています。
一方で、日本では、教科書もいつでも答えが1つに定まるものとして理科を教えています。そして、それが入試で試されるのです。それが一般の人々の専門知に対する過大な期待につながっているのではないでしょうか。科学的なリテラシーの大切さだけでなく、どういう科学観を持っているかということも関わってくるのだと思います。

 科学技術社会というのは、個人に判断がまかされる。個人が科学リテラシーをもって、自分で判断する。こどもには、大きくなったらそういう判断が求められるようになるのだよ、だから理科を勉強するんだよ、と説いてあげる。
 GCSE Science Higherの構造を見てみると、生物学(B), 化学(C), 物理学(P)などの分野ごとに、例えば、生物であれば「遺伝子操作」の問題、化学であれば「食品添加物」の問題などのように、日常生活の中にある科学の問題として、テーマを取り上げています。アプローチの仕方は、全編が科学のリスクについてのようなものです。
自分で情報を集めて、考え、判断する、きびしさがあります。日本の受け身な学びではないですね。

 大学院生がイギリスと日本の教科書について比較研究をしたことがありました。
まず、「科学はどんどん書き変わる」ことを前提に科学的な力をつけることがイギリスの教科書の明確な目標です。それに対して、日本の教科書には明確な目標がない。あたかも「欠如モデル」のように、生徒の空っぽなコップを知識で満たしてやろうとしているだけのような教科書なのです。
 例えば、応用問題にそれが現れています。日本の教科書では物理Ⅱで放射能について学んだ後、「1gのラジウムが、0.25gまでに半減する時期を計算しなさい」となっている。それに対し、イギリスの教科書は「ロンドンからオーストラリアに出張します。あなたの被曝量はどれだけになりますか」という問題が載っています。とても日常に即した問いで、実際的です。
 多少なりとも放射線被曝は、飛行機に乗ることであがります。だからこそ、機長や乗務員には乗務時間規定があるのですけれどね。将来、自分が出張することがあるかもしれない。18時間のフライトである。被ばくは避けられない。それでどうするか、と具体的です。

 関連する情報を見つけましたので。
 ●「Togetter」米国の義務教育で科学がどのように語られているか

 
3.諸外国とのリスク観の違い

●日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)会長 武部俊一さん インタビュー
(一部のみ引用)

 日本では圧倒的に「立入禁止」「~してはいけない」が多い。一方、欧米では「あなたの責任で」「あなたのリスクで」という指示が多い。
カリブ海のオランダ領アルーバ島の高さ50メートルほどの一枚岩の小山は綱を頼りに登るのですが、入口の看板は「この石段を登るのはあなた自身のリスクで」、
ハワイのキラウェア火山の真新しい溶岩のそばには「ここから先は極めて危険。溶岩原は警告なしに崩れる」という立札(一部焼け爛れている)があるものの、「進入禁止」はありません。
アリゾナの渓谷には「低リスク」という看板に「水辺の活動はあなたのリスクで。ここには救助員はいません」と添えられています。
自己判断で、自己責任で、自然との付き合い方をしているのです。



4.日本社会の体質、「建前」と「本音」の乖離、「科学はひとつの正しい答えを持っている」という建前

●石井敦 東北大学東北アジア研究センター 准教授
(一部のみ引用)

 日本社会においては、「建前」と「本音」の乖離が激しく、また乖離していることが制度化されていると思います。乖離していることが常態であるのです。そのために、本当に必要な公共領域の議論が成立していない。

 例えば捕鯨問題について見てみましょう。
「南氷洋には76万頭のミンククジラがいる」というような報道をメディアがする。そのことはIWCの科学委員会で根本的な見直しが行われているのに、その報道姿勢を変えない。実際にIWCの科学委員会が報告したことは、「50万頭から110万頭の間のどこかに実数がある」ということで、基本的にはわからないことが多い。しかし、日本のメディアはその中間値をとって、「南氷洋にクジラが76万頭」と報道する。そうするとその数字が一人歩きをして、「76万頭いるんなら、その1%以下の2000頭ほどとったって、大丈夫だろう」というような議論が展開されていく。

 海洋野生動物の生息数調査の難しさやデータから読み取れることは何かということについてのリアリティを持った議論ができない
研究者の役割として、科学コミュニケーションを成立させることに貢献できていない。

 ウォルフレンが『人間を幸せにしない日本というシステム』で指摘しているように、リアリティをどう見るかが、管理されている。国の最高権力は国民に選ばれた国会にあると憲法に謳われていますが、実際には官僚が決定の最高権力を握っている。

 官僚は、「自分たちは科学や法律に従って、立法しているだけなので、権力を行使しているのではない」と言います。「審議会」によって有識者らや利害関係者からの意見をもらって、決定しているにすぎないのだと。

 そのようなリアリティから乖離した論理を普及させるべく、法律の読み替えを可能にするように科学的知見だけを使い、一般的な公衆の支援を作り出すメディアにもその知見だけを報道させる。
いま、日本のメディアが「客観報道主義」と自ら言っていることの現実は官庁と企業のプレスリリース中心主義であるということです。

 「科学はひとつの正しい答えを持っている」というのは思い込みではなくて、そのように国民を育てること、「正しい」「客観的な事実」に基づいた政策を官僚が示し、政治家たちが選びとるようにしていく、そしてメディアが支配的な言説をくり返し、国民的合意を作り出していく。そのような体制になっていることが問題なのです。

 このような制度化された乖離を見てきてしまうと、すべてが建前に思えてくる、建前を批判するものがすべて正しいと思えてくる。政府の立場に疑いが差し挟まれるようになると、批判する立場がにわかにポピュリズム的支援を受けるようになる。

 それと、建前と実態が乖離すると、極端な現場主義が好まれるようになります。国際交渉であるならば、その現場に居合わせた人のコメントなどを尊重する。現場にいては反って見えなくなる背景や文脈などがあるので、第三者の視点は非常に重要なのですが、注目されにくくなる。

 そして、政策について論じるのは官僚であることが非常に多い。社会科学者や人文学者が捕鯨についての政策論争に登場することはほとんどなかった。捕鯨であれば水産庁が説明する。
それが支配的な説明となっていく。捕鯨問題では、支配的な説明をくつがえそうとすると、日本政府批判になってしまう。

 推進する側に都合のよいリアリティを作り出すように世論を操作してしまうと、それがうまく行っているときは、効果的なのですが、変えられなくなる。自分たちが一度推進した建前が、変化の足かせになる

 日本の意思決定過程は、アメーバ状態なのです。時々に、力を持つ人が替わる。同級生から言われたこととか、パーソナルなことによって動かされることもあるし、実権をもつ人が特定できない。

 しかし、そこから出されてきた決定は「客観的な事実」や「科学的根拠」に基づいたものだと、されなければならないのです。
ですから、「科学がはっきり正しい答えを出してくれる」という建前を維持しなければならなくなっているのです。


●横浜国立大学環境情報院特任教授 浦野紘平氏(エコケミストリー研究会代表) インタビュー
(一部のみ引用)

 日本は大きな事故(リスク)に対して非常に弱い社会です。リスクに対する心構えが、企業にも政府にも議員にも国民にもありません。それでパニックになってしまうのです。
 日本社会の体質として、答えをひとつにする傾向があり、答えがいくつもあるという発想をさせないというものがあります。「日本人の個性」といってもいいのかもしれませんが、横並びを好むということがあります。
 多様性を認めない社会はリスクへの対応力が乏しくなります。(中略)このような均一志向が、絶対安全を信じたり、安全か危険かの二分思考につながっています



5.「科学はひとつの正しい答えを持っている」によって、対応を誤って来た例

●東京大学大学院総合文化研究科 藤垣裕子 教授 インタビュー
(一部のみ引用)

 「科学はいつでも厳格な答えを出してくれる」という思い込みによって、これまで、日本政府が対応を誤って来た問題がいくつかあります。
水俣薬害エイズ、そして狂牛病などです。厳格な科学的証明がないと対策がとれないという姿勢によって、被害を拡大しました。水俣病など、そのチッソの排水との因果関係が最終的に確定したのは2002年のはずです。発生してから50年以上たって立証された。対策のないまま患者が増える。「確実で厳密な科学的知見がでるまで原因特定・患者認定をしない」という立場がもたらした結果です。
 大切なことは、確実で厳密な知見がでていなくても、今ある知見で最適なことを行うということです。そして、あとで確実で厳密な知見がでてきたあとに、そのときにまた最適なことをすればいいのだと思います。諫早湾の干拓がいい例ですが、計画ができたのが1960年代、その時最適だと考えたことがいまの時代では最適ではない。とすれば、修整すればよい。いまの時代、環境などの配慮が高まった時代における最適は違っていい。「まちがいでした」と謝って変えればいいことです。こういう考え方をadaptive-management(適応的管理)といいます。
 以上のように、科学に柔軟な科学観が必要なように、政策も柔軟な政策観が必要です。
日本には、走り出したら止められない、慣性の法則のようなものが強く働くらしいですね。いまの状況を太平洋戦争末期の国民全力戦に突入していくのを止められなかった頃に似ているという人もいるらしいですね。


●日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)会長 武部俊一さん インタビュー
(一部のみ引用)

 BSE対策で全頭検査の対策がとられましたが、JASTJ会員でもある唐木英明・東京大学名誉教授は論文「全頭検査神話」(『日本獣医師会雑誌』2007年6月号)で「消費者が望むのであればどんなに小さなリスクでも可能な対策はするべき」という行動を批判し、「対策を必要とするリスクは多い。科学的な正当性に基づいて費用対効果の計算を行い、リスクの相対的な大きさに応じたリスク管理を行うことが社会的公平につながる」としています。食品や健康にからむリスクは微妙な問題もありますが、相対的にリスクをみるという視点はリスク報道で配慮しなければならない視点です。



6.政府・行政の政策と個人の判断

●秋田県立大学 金澤伸浩准教授
(一部のみ引用)

 一律な対処によって、個人の選択肢を狭めてしまう政策個人の判断を許容しない政策がありはしなかったでしょうか。たとえば、放射線を恐れて体の不自由なお年寄りを避難所に連れて行くことは、個人のリスク(エンドポイントは死亡)を増大させる場合があると思います。避難すること自体のリスクが高いのにそれを強要する。それは社会の損失につながることです。

 政府や行政がするのは必要最低限で、基本は個人がリスクを判断して、自由裁量で行動できるようになる方が経済的にも効率的でないかと思います。個人が行うリスク判断に合理性があるのなら、それをできるだけ尊重して追加で個々に対応する、その方が満足度が高く、経済的にも効率的になることはないでしょうか。

 これを実現するには、個人が科学観をもち、リスクを判断し、意思決定できるようになる必要があります。現在は国民が政府などにリスクの判断を委ねてしまう権威に依存する傾向もあります。それらを改善していくために、リスク教育が必要なのです。


●日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)会長 武部俊一さん インタビュー
(一部のみ引用)

 たとえば、今回の震災でいえば、適切な避難を促す措置がとられたか、避難した人がもとに戻れない状況をどう報道していくのかがあります。三宅島の火山噴火のときも、本土に避難した住民がなかなか島に戻れなかった。日本では、お役所の判断に逆らって避難地域に残る人は非難されるような風土があります。「自分の判断で帰ってください」といえるような情報を提供していくことが必要ではないかと思います。
アメリカのセントへレンズ火山が爆発したとき、山小屋のおじさんは政府勧告があったにもかかわらず自らの信念で残り、死亡しました。しかし国民からその行動を非難するような声は出ず、むしろ賞賛の声があがりました。


つぶやき

 ひたすら、ピックアップだけのエントリーでした。
 個人的には2項と4項にいたく共感。


関連エントリーはカテゴリーにひとまとめにしています。記事下部or左欄のカテゴリーリンクから、どうぞ。
[ 2012/03/14(水) ] カテゴリ: リスク認知など一般的な | CM(0)
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