ポストさんてん日記

放射線・エネルギー・環境・化学物質・食品などの情報をアーカイブとして整理すると同時に、徒然につぶやいています。 リンクはご自由に。

リスクコミュニケーション、ゼロリスク、認知的不協和理論、規制科学、放射線リスクガバナンスの失敗

[ 2012/03/08 (木) ]
 キーワードとして下記を含む最近の論説ををいくつか、アーカイブします。
リスクコミュニケーション、ゼロリスク、反原発派の無責任な発言、認知的不協和理論、規制科学、放射線リスクガバナンスの失敗、など。

1.放射能デマ拡散の背景「認知的不協和理論」の心理あると識者
2.ゼロリスクを目指す危険性
3.社会と科学のギャップを埋めるための放射性物質リスクガバナンスの提案
4.市民が「科学」に口を出せるか 福島原発事故から考える「科学技術コミュニケーション」


 原発事故から1年近く経つが、この間、メディアでは反原発派の無責任な発言に依拠した報道が目立った。

 とはいっても、問題の所在は既存メディアだけではない。ネット上では相変わらずツイッターなどで放射能デマが凄まじいスピードで拡散している。 新潟青陵大学大学院臨床心理学研究科の碓井真史教授はその背景をこう分析する。

 人間は、自分が不安を感じているにもかかわらず現実には何も危険が起きていないという矛盾した状況を嫌う傾向があり、不安を裏付ける情報を集めようとする。これを社会心理学では『認知的不協和理論』といいます。“安全だ”と主張するよりも、“危険だ”と煽る情報が拡散しやすいのはこのためです。

 気をつけなければならないのは、集団で討論していくうちに、当初の意見がどんどん過激になり、極端に走る『集団極性化』の状態に陥ってしまうこと。そして、最も過激な“危険だ”という声だけを信じるようになり、反対意見をいう者がいれば、“安全デマ”“御用学者”と激しく非難して攻撃対象にし、セクト化してしまう。カルト宗教にも似た心理状態で、大変危険だ。こういう事態を助長したのは、メディアの責任ともいえる


 むろん、報道や言論は自由であるべきだが、仮にもジャーナリズムを標榜するなら、最低限の事実確認と専門分野への理解がなければ「煽動」と罵られてもしかたない。各媒体の主義主張で事実がねじ曲げられるなら報道ではないし、ただ「売らんがため」に煽れば “活動家”の宣伝媒体に成り下がる。

 安井至・東大名誉教授(工学博士)は、メディアの現状をこう嘆く。

 トンデモ学者が重用されていることには理由がある。放射線のリスクを理解できない日本人ばかりになった現状*では、新聞としては中立を装わないと自らの存立に関わると考えているからだ。そのため、放射線防護学の世界的権威の発言すら紙面に載せられない状況になっている。真実を伝えるのがメディアだとしたら、メディアは死んだ

【つぶやき】
*  そうでもないと思うが。
(比較してもしょうもない事だが、)各国国民に放射線に関するテストをしたら、日本人の成績はダントツなのでは?
トンデモ学者の重用理由は別にあるのでは。( たぶん、記事になった以外に、安井教授はもっと色々な発言をしてると思うので、これだけの発言に対して云々言うのは的外れで無意味かも。)


2.ゼロリスクを目指す危険性(安井至氏)
環境省の化学物質と環境円卓会議(第7回 平成15年8月27日)の資料

リスクに対処する大原則(ゼロリスク)



2012/2/24の産業技術連携推進会議 地圏環境分科会 合同研究会 放射性物質に関わる緊急セミナー

(一部のシートのみ紹介)

なぜ専門家が安全派と危険派に二分されているように見えるか

規制科学
 
放射線リスクガバメントの失敗を踏まえてインフラ整備10の提言

【つぶやき】
じっくり勉強してみます。


4.「WEDGE Infinity(ウェッジ・インフィニティ)」2012/3/1 市民が「科学」に口を出せるか 福島原発事故から考える「科学技術コミュニケーション」 平川秀幸准教授(大阪大学)

平川准教授の略歴は一番下にあります。
(太字加工はブログ主による。)

福島原発事故以降、政府の情報に不信感を抱いた市民は、SNSなどを駆使して自ら放射線に関して学びはじめた。
不幸なきっかけではあるが、「科学技術」に対して専門家ではない立場から市民がどのように関わっていくべきか、改めて考える機会となった。
本来「科学技術コミュニケーション」とは、科学技術について、市民にわかりやすくその内容を伝える、そして、市民の疑問や意見を専門家に伝えるという、双方向のコミュニケーション活動である。
しかし、2000年頃流行した「サイエンス・カフェ」などは当時懸念されていた「理科離れ」対策が主要事項であり、専門家からの情報発信の側面が強かったという。
また、BSE問題や口蹄疫、インフルエンザ流行時には、今回の原発事故同様の混乱があったにも拘らず、依然として適切なリスクコミュニケーションが行える社会の仕組みが成立してこなかった。
緊急時のリスクコミュニケーション、ひいては適切な科学コミュニケーションとは何か。
科学ガバナンス論が専門の平川秀幸・大阪大学准教授に、3・11以降の政府、科学者、市民の間のコミュニケーションのあり方について聞いた。
 
福島原発事故以降の政府の情報の出し方は、科学技術コミュニケーションの観点からご覧になってどう感じましたか。

 事故直後のいわゆる「クライシス・コミュニケーション」は特に稚拙だったと感じます。「直ちに影響はない」と言っても、「この先はどうなるの?」という不安は解消されません。1号機の水素爆発があってから、東京駅に子どもを連れた母親たちが殺到した、いうこともあったようです。逃げる必要がないとしても、外出を控えるべきか、食事をどうしたらよいか、自分たちの行動を決めるために、最悪ケースも含めたシナリオを政府がきちんと提示すべきでした。リスクマネージメントの基本原則です。

 パニックを恐れた、という面もあるかもしれません。確度が上がるまでは情報を出さないというのは、誠実という捉え方もできますが、こうした危機的状況では情報を出さないことによって、かえって不信感を招いてしまいます。適切な情報すら、裏読みされてしまうという悪影響も出てきかねません。

 どんどん情報を出して、誤りがあれば積極的に訂正する、という態度が政府には求められていました。メディアも、情報の修正に対して「間違った」「隠していた」ではなく「更新した」というポジティブな評価をすることで、国民も疑心暗鬼に陥ることなく、また両極端に動くことなく、「修正が出るかもしれない」という見込みをもったうえで情報を受け取る、という社会の中での文化ができあがっていくのが本来の健全な姿と思います。

今回の原発事故だけでなく、今までもBSEや口蹄疫、インフルエンザなど、政府と市民のコミュニケーションがうまくいかなかった例がありました。今回の事故の教訓を、今後どのように活かしていけばよいのでしょうか。

 先ほどの例以外にも、今回の原発事故で政府は、リスクコミュニケーションにおけるタブーをおかしてしまいました。

 一つ目は、リスクの比較です。ものさしとしては便利なのですが、単純に比較してはいけない場合もあります。例えば、発ガンリスクを並べたときに、今回の事故による被ばく線量と、放射線治療やレントゲンによる医療被ばくなどを発生確率だけで比較して、「安全」という主張がありました。しかし、後者にはメリットがありますし、選択権があります。事故による被ばくには、メリットもなければ選択もできませんでした。リスクを受容するか拒否するかには、メリットがあるかどうか、自ら選択可能か、社会全体としては公平かどうか、社会正義に関わる判断が強く影響します。こうした観点を「リスク認知」と言います。

 こうしたリスク認知の質的な違いを無視して、安易にリスクを発生確率だけで比較してしまうことで、市民に怒りが生まれる、という悪循環に陥ります。

 二つ目は、リスクコミュニケーションに関する知識をもった人間が、政府内にいなかったことです。外部からはアドバイスがあったりしたかもしれませんが、不足していたことは間違いないでしょう。今回は、科学的な知識とともに、それを受けて今後どうすべきかという対策を練らなければなりませんので、政府内の意思決定に関わる人物にリスコミの知識がなければスムーズにいきません。

 人材育成に力を入れていなかったわけではありません。大阪大学でも、「環境リスクマネージャー育成プログラム」(現在は終了)がありましたし、2000年代初頭には政府からの援助もあり、東京大学や北海道大学でも同様のプログラムが組まれていました。しかし、多くは当時話題になっていた「理科離れ」を食い止めることが目的で、科学者から市民への発信のベクトルが強く、知識を一方的に「与える」ということに偏っていました。

市民の考えを伝えるコミュニケーターの不足

 今回の事故では、必要に迫られた市民がITネットワークなどを活用しながら自ら学び始めたことが大きな特徴です。この時に、市民が知りたいこと、不安に思うこと、伝えたいことを適切に言語化し、科学者や政府へと発信する人材が圧倒的に不足していたという問題*1が浮き彫りになりました。

 例えば、今回の放射能汚染で「ゼロリスク」を求めるな、という専門家がいます。市民からすると、「ゼロリスク」=「今回事故以前の状態」に戻してほしいという言わば「原状回復要求」*2であり、それを真っ向から否定されることへの抵抗感があるでしょう。こうした内容を、私が以前に自身のHPで偶然書いていたのですが、今回の事故以降、ツイッターなどで広まっていました。「自分のモヤモヤしていたことが言葉になっていてすっきりした」というつぶやきがあり、まさに、市民側のコミュニケーターが不足していたのだ*1と感じました。

 三つ目の問題は、日本学術会議がまったく機能しなかったことです。専門家が集まっており、政府に勧告する権限を有しているにも拘らず、まともな情報が出てきませんでした。意見集約をして政府に助言としてまとめあげる機能がないのです。時間をかけても、独立性をさらに高めて、極論ではなく、幅のある形で情報発信をしていける機関として機能してほしいと思います。

これら3つの問題点に加えて、今後事故の教訓を活かして社会の仕組みづくりを進めていくためにすべきことは何でしょう。

 国の政策について、市民がコメントする、参加するという仕組みづくりが今後もっと必要になります。現在も主に食品の分野では、食品安全委員会やリスクコミュニケーションと称する説明会など、比較的実施はされています。

 政府ができることは、まずパブリックコメントの方法を変えることでしょう。もっとインタラクティブになる必要があります。今の方法では、設問が大まかなので、有益な情報が得づらい。海外には、政策の意図をきちんと記し、具体性のある質問を多数設定している国もあります。答える側も、具体的な提案がしやすい。外部に分析も依頼し、政府の回答もまとめて市民にフィードバックし、政策に反映している。有意義な結果が得られると同時に、手間をかけていることで国民の信頼も得られます。

 国民の間でも、科学技術に関してもっと自発的に意見交換の場を設けてほしい*3。一見自分と関係がないように見えることでも、今回の原発事故のように、いつ何が起こるか分かりません。専門的なことも勉強すればある程度理解できるはずですし、例えば携帯電話の使い勝手を考えた時に、用いられている技術を理解していなくとも、ユーザーとしての観点から意見を述べることもできます。ある科学技術コミュニケーションのイベントで、再生医療について話し合われた際、「保険は適用されるのか」という疑問が生じました。参加者に、生命保険会社の社員がいて、回答していましたが、このように職業人として思いがけない観点から意見が述べられることもあります。こうした場を、制度や仕組みというよりも、文化として広めていきたい。10年、20年スパンの時間がかかるけれども、実現していきたいと思います。

「科学」において市民の声を聞く必要性とは?

平川先生が仰るように、科学者と市民との間で適切なコミュニケーションが図られ、市民が理解したうえで出した考えを踏まえて政策決定がなされるのが理想だと思います。しかし、こうしたプロセスを経ることで、議論が滞ったり、市民の感情論で間違った方向に政策が進んでしまったりする、という懸念はないのでしょうか。

 確かに、市民が出した答えが正しいとは限りません。しかし、政府が独断で下した政治的判断も、間違えることがあります。できる限り間違わないようにする努力をする一方で、失敗を受け入れるプロセスを経るためにも、市民とのやりとりは必要と感じます。排除すれば、それだけで「受け入れられなかった」と感じ、政府の判断が間違いと分かれば余計に反発を抱きます。まさに今回の一連の原発問題がそうでしょう。市民の声を聞いたうえで、反映できる点もできない点も、政府は真摯に説明する責任があります。

 原発事故以降、極端な思考や行動に走り、冷静な議論ができない「先鋭化」してしまった人たちがいます。彼らにもともとそういう傾向があったのかもしれませんが、同時に社会が彼らを「孤立」させてしまった側面もあると思います。放射能への不安を言語化できない、話を聞いてもらえない、頭ごなしに「ゼロリスク」を否定される*4

 私の同僚で、女川町や六ヶ所村で原発に関して住民とのコミュニケーションを何年も続けていた人がいます。国や電力会社の一方的な説明会で罵声を浴びせるような人も、対話の場では実に普通に話をすると言っていました。本人に率直にその疑問をぶつけてみると、「ここはちゃんと話を聞いてくれるから」と言ったそうです。意思決定に責任を負う側が、正面から話を聞くという覚悟をもつことで、実は冷静に議論ができるのです。聞いてもらえるだけでも、人間はかなり不安が解消されますし、アドバイスを聞く気持ちにもなる。「何か問題か」「何を不安に感じているのか」。わかるだけでも、「腰を据えて」不安になれます。

 今回の不幸な事故を、政府、市民がそれぞれの立場から教訓にし、私も含めて大学などがコミュニケーションの場を提供しながら、熟議を重ねられる社会をつくっていきたいと思います。

平川 秀幸(ひらかわ・ひでゆき)
大阪大学コミュニケーションデザイン・センター准教授。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士後期課程博士候補資格取得後退学。博士(学術)。専門は科学技術社会論(科学技術ガバナンス論、市民参加論)。98年末から2000年まで、(財)政策科学研究所客員研究員として、科学技術政策関係のプロジェクトに参加。著書に『科学は誰のものか』(NHK生活人新書)、『リスクコミュニケーション論』(共著、大阪大学出版会)、『もうダマされないための「科学」講義』(共著、光文社新書)などがある。

【つぶやき】
少々一般論的・概括的すぎる記事なので、読み流すと、“ごもっとも感”が多いのですが、一つひとつ立ち止まって考えると、違う角度の見かた・分析があるのでは?と感じる部分もある。
そんな感じを持った箇所に*印を付けました。
*1 いきなり“コミュニケーターの不足”が出てくるのは違和感が。“政府へ発信する人材が不足”の前に、政府が日本学術会議などの組織を生かせなかった実態(双方に原因?)からスタートすべきなのでは?
*2 “原状回復要求”は時間が経ってからの感情レベルとしての問題だと思う。事故直後のクライシス・コミュニケーションと時間が経ってからのリスクコミュニケーションは切り離して考えるべき命題かと。さらに“原状回復要求”の“原状”とは何だったか?を掘り下げる事が必要ではないか。(1960年代のフォールアウトやチェルノブイリによるフォールアウトの実態さえ、良くは知られていなかった。)
*3 “科学技術に関して”のところには、他の言葉(例えば、社会保障)を入れても成り立つセンテンスだと思う。“科学技術コミュニケーション”の問題に無理やり結びつけてはいませんか。
*4 “「ゼロリスク」を否定”は正しい認識のスタートとして必要な事では。説明方法が稚拙という問題があったかも知れないが、受け手の問題(聞く耳をもっているか?特定の主義・主張に特段の拘りを持っているか?など)もあると言う事を除外してはいけないかと。


関連エントリーはカテゴリーにひとまとめにしています。記事下部or左欄のカテゴリーリンクから、どうぞ。

【メモ】
「放射線診療への疑問にお答えします」クライシス・コミュニケーション
[ 2012/03/08(木) ] カテゴリ: リスク認知など一般的な | CM(6)
Re: リスク・ベネフィット論について
関口さん
内容的に少々ビックリしたコメントでした。せっかく戴いたのに申し訳ありませんが、問題点を指摘させて下さい。
>ピーク時を除けば原発なしで・・・
電力供給の最重要課題のひとつは、ピーク時の安定供給ですので、それを除くという仮定での言説は無意味です。(次のセンテンスの枕なので、ここには目くじらを立てていません。)

>原発なしで電力をほぼ補えるという現状・・・
“この現状”のリスクやデメリットを全く感じられていない事に驚いています。経済、ひいては子供たちに引き継ぐ未来の国の姿のことも考えましょう。

>原発から生ずるベネフィットの多くが・・・
コスト問題、CO2問題、エネルギー安全保障問題*1、などなどのベネフィットも考えましょう。
我々が支払った電気料金の一部が官僚・政治家を始めとした原子力ムラの利権になっている事、原発関連企業や立地自治体に不当*2に落ちた事は事実ですし改善すべきですが、他の手段にもダークサイドがあると認識しましょう。
他の手段のリスクやデメリットも考えましょう。

*1 本来、安全保障問題はベネフィット・デメリット問題として取り扱うものではありませんが、説明を簡単にするための便法です。
*2 電源3法交付金に限れば、問題はあるものの不当性があるとは思っていません。

>自然なのではないでしょうか?
主張や考察は論拠に基づくべきです。理解不能です。

>子供達はベネフィットが殆どないのに・・・
(世界の中での位置づけとして)どんな姿の日本を子供達へ引き継ぐか、少し考えましょう。
(原発の有無だけの話ではなく多くの要素が関係しますが、)相対的に今の日本より良い姿を実現してあげたい。
例えば、電気の無駄遣いの是正や省エネを超えた我慢はダメです。貿易収支が常に赤字はダメです。国内できちんとした雇用確保が必要で多くの人達が外国に出稼ぎに行くなどはダメです。燃料が輸入出来なくなった時に早期に経済が破綻するのもダメです。これらは非常に大切な事です。
“やみくもな脱原発”では、子供たちへの責任は果たせません。当面は原発をより安全に使う責任があり、将来に向けては、様々な要素で【ベネフィット>リスク+デメリット】となる優れた電源の開発や一長一短の諸電源を適切に組み合わせる計画を立てておく事が責任です。そこには次世代原発の検討も否定してはいけないと思います。

(原発問題は纏めをしないまま、かなり以前に卒業したので、)自分の考えの整理のため、以上のコメントを記載した次第です。他の方の論説ですが下記に目を通される事をお勧めします。
http://blogs.yahoo.co.jp/bloom_komichi/64752518.html

参考までに、
ある科学者が今回の事故内容と事故拡大の可能性などについて、1年間、科学的に様々に解析してきた結果、最近になって次の発言をされています。
『3/11以前に反原発だった私も強く反省します。原発が、これほど安全とは知りませんでした。勉強不足で感情だけで反対していたことを、科学者として恥じます。』
(この発言の背景となる多くの科学論説を読まないと理解しにくいとは思いますが。)
http://blog.livedoor.jp/toshi_tomie/archives/52047498.html

関口さんとこの問題で論議を続けても、お互いにすれ違ったまま意味のないやり取りの繰り返しになる可能性が高く、お互いに得るところがなく時間の無駄かなと思っています。
[ 2012/03/15 10:09 ] [ 編集 ]
リスク・ベネフィット論について
icchouさん、お久しぶりです。
「原発電力の享受がベネフィットである」とのomizoさんの意見ですが、
もし電力が原子力のみに頼っている現状であれば、間違いなくそう言えます。ですがピーク時を除けば原発なしで電力をほぼ補えるという現状の元では、説得力に欠けると思われます。
 原発から生ずるベネフィットの多くが、原発関連企業や立地自治体に流れていたと考えるのが自然なのではないでしょうか?
 もちろん、私たちが全く原発からベネフィットを受けてないとは言いません。けれど、子供達はベネフィットが殆どないのに、リスクのみを受けていると私は感じています。
[ 2012/03/14 13:04 ] [ 編集 ]
omizoさん コメントありがとうございます
戴いたコメントをきっかけに私なりにリスク・ベネフィット論を整理すると、
原発問題ではリスク・ベネフィット論が成り立つ。
一方、今回の放射線ひばく問題では成り立たない。それでは、ベネフィットがないこのリスク課題にどう取り組むか?のところで2点あって、一つは放射線の人体影響の判らないとされている部分を少なくするという“科学的な追及”、もう一つは“認知科学のような手法” や“社会全体のリスクの中での考え方”、なのかなと思いました。

“科学的な追及”は研究成果を出すにもその認知にも時間と労力がかかるけれど、“最新成果・説としての存在感・認知度”を高める事は大変重要な事で、そこを宇野先生やbloomさんの様な研究者が頑張っておられるし、ひまわり先生やomizoさんのような医師が的確な発信をされている。
“認知科学のような手法”や“社会全体のリスクの中での考え方”については、今後、その重要性が高まってきますよね。安井至先生や(教えて戴いた)松田裕之先生の発信を読んで勉強しようと思っています。

>死なない人を作り出してきた。医学の重罪・・・
素人的な作用・副作用論から思うに、幸福を作り出してくれた作用の方が、遥かに大きいと思います。特に、未来を担う子供たちの世代に対して。
[ 2012/03/12 12:05 ] [ 編集 ]
今回の放射線問題は、確かに現在の放射線は、メリットが無いですが。以前における原発電力の享受という行為がありました。 先にベネフットを受けているわけです。 福島の方は、この辺はリスクとベネフイットの関係が変わりますが。 現状はべネフイットが無いですが、原発の電力供給が始まった時点からのリスクとベネフットをでしょう。

 環境リスクコミニケーションは、中西さんが始める前にやっていたのは、松田さんぐらいでしたからね。 

安井さん曰く、何で死にたいでしょう。 放射線でがんでしぬには嫌だだが、道でコケて硬膜下血腫でしぬのは受け入れられる。かな。

 高齢で肺炎でしねれば、大往生でしょうが。

人の体は不思議なもので、胎児の段階で色々な問題を抱えて出生してくるわけで、それを制御しながら生きていくわけです。 何重もの保護システムで補いながらです。  

死なない人を作り出してきた。医学の重罪という事かも。 苦笑。
[ 2012/03/11 22:19 ] [ 編集 ]
Re: 安井至氏
偶然ですが波長が合いましたね。
リンク戴いたサイトで、安井教授が色々と発信されている事が判りました。ありがとうございます!
環境問題では大変有名な方で、、、
記憶によると、環境問題が華やかしき頃、割といい加減な発信をしていたのが(あの)武田教授*1、その対極で発信していたのが安井教授というイメージがあります。
*1 思わず笑ってしまいますね。

サイトを眺めると、結構、興味深い見出しが多いですね。放射線や医学・生物学を専門にしていないキチントした学者がどの様な発信をしているか?楽しみです。

(Kさんが気になった部分、確かに“なるほど”です。以下に引用しておきますね。)
リスクは比べられる」。
「危険論者」は、リスクを比較しようとしない。
生命にとって、しかも日常生活においても、多種多様な、また、大小様々なリスクが存在していて、そのリスクを上手く避けながらなんとか生存しているのが現実。
「上手く避ける」ことが不幸にならずに幸福になることに繋がるので、これがもっとも重要。
「上手」にやる具体策は、リスクの大小や特性を比較して、どの方法を採用したら、リスクをもっとも少なくすることができるかを考えてから行動する。
そのときに、様々な種類のリスクのうち、どれか一つをゼロにすることを目指すのではなく、合計で少なくすることを定量的に考えるのが賢い方法だということになる。
ただ、それを実現するには、多少の知識が必要ではある。
[ 2012/03/08 18:48 ] [ 編集 ]
安井至氏
ちょうどきのう見つけてhttp://www.yasuienv.net/
明日のために予習を・・・と思っていたところでした。
有名な方だったのですね。FGFの石田葉月氏の検証の部分を印刷したところです。http://www.yasuienv.net/AntiSafe.htm
あとは、「リスクは比較できる」という表現が強調してあり、何か大事なことのように思います。
しかしこのような発言もされているのですね^^

[ 2012/03/08 13:57 ] [ 編集 ]
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