ポストさんてん日記

放射線・エネルギー・環境・化学物質・食品などの情報をアーカイブとして整理すると同時に、徒然につぶやいています。 リンクはご自由に。

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ブータン国王から頂いた感動・感銘

[ 2011/11/21 (月) ]
 ジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王とジェツン・ペマ王妃が20日午前、関西空港から帰国の途に就かれました。
 15日からの日本滞在中、王室・皇室のもたれる尊厳・調和・親しみを感じさせて頂きました。(日本・ブータンともに「立憲君主国」)
 西岡京治さん物語前国王の事を含めて、いくつかの記事やトピックスをアーカイブさせていただきます。

1. ブータン国王 国会演説 全文

 天皇皇后両陛下、日本国民と皆さまに深い敬意を表しますとともにこのたび日本国国会で演説する機会を賜りましたことを謹んでお受けします。衆議院議長閣下、参議院議長閣下、内閣総理大臣閣下、国会議員の皆様、ご列席の皆様。世界史においてかくも傑出し、重要性を持つ機関である日本国国会のなかで、私は偉大なる叡智、経験および功績を持つ皆様の前に、ひとりの若者として立っております。皆様のお役に立てるようなことを私の口から多くを申しあげられるとは思いません。それどころか、この歴史的瞬間から多くを得ようとしているのは私のほうです。このことに対し、感謝いたします。

 妻ヅェチェンと私は、結婚のわずか1ヶ月後に日本にお招きいただき、ご厚情を賜りましたことに心から感謝申しあげます。ありがとうございます。これは両国間の長年の友情を支える皆さまの、寛大な精神の表れであり、特別のおもてなしであると認識しております。

 ご列席の皆様、演説を進める前に先代の国王ジグミ・シンゲ・ワンチュク陛下およびブータン政府およびブータン国民からの皆様への祈りと祝福の言葉をお伝えしなければなりません。ブータン国民は常に日本に強い愛着の心を持ち、何十年ものあいだ偉大な日本の成功を心情的に分かちあってまいりました。3月の壊滅的な地震と津波のあと、ブータンの至るところで大勢のブータン人が寺院や僧院を訪れ、日本国民になぐさめと支えを与えようと、供養のための灯明を捧げつつ、ささやかながらも心のこもった勤めを行うのを目にし、私は深く心を動かされました

 私自身は押し寄せる津波のニュースをなすすべもなく見つめていたことをおぼえております。そのときからずっと、私は愛する人々を失くした家族の痛みと苦しみ、生活基盤を失った人々、人生が完全に変わってしまった若者たち、そして大災害から復興しなければならない日本国民に対する私の深い同情を、直接お伝えできる日を待ち望んでまいりました。いかなる国の国民も決してこのような苦難を経験すべきではありません。しかし仮にこのような不幸からより強く、より大きく立ち上がれる国があるとすれば、それは日本と日本国民であります。私はそう確信しています。

 皆様が生活を再建し復興に向け歩まれるなかで、我々ブータン人は皆様とともにあります。我々の物質的支援はつましいものですが、我々の友情、連帯、思いやりは心からの真実味のあるものです。ご列席の皆様、我々ブータンに暮らす者は常に日本国民を親愛なる兄弟・姉妹であると考えてまいりました。両国民を結びつけるものは家族、誠実さ。そして名誉を守り個人の希望よりも地域社会や国家の望みを優先し、また自己よりも公益を高く位置づける強い気持ちなどであります。2011年は両国の国交樹立25周年にあたる特別な年であります。しかしブータン国民は常に、公式な関係を超えた特別な愛着を日本に対し抱いてまいりました。私は若き父とその世代の者が何十年も前から、日本がアジアを近代化に導くのを誇らしく見ていたのを知っています。すなわち日本は当時開発途上地域であったアジアに自信と進むべき道の自覚をもたらし、以降日本のあとについて世界経済の最先端に躍り出た数々の国々に希望を与えてきました。日本は過去にも、そして現代もリーダーであり続けます。

 このグローバル化した世界において、日本は技術と確信の力、勤勉さと責任、強固な伝統的価値における模範であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。世界は常に日本のことを大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることへ願望を持って何事にも取り組む国民。知行合一、兄弟愛や友人との揺るぎない強さと気丈さを併せ持つ国民であると認識してまいりました。これは神話ではなく現実であると謹んで申しあげたいと思います。それは近年の不幸な経済不況や、3月の自然災害への皆様の対応にも示されています。

 皆様、日本および日本国民は素晴らしい資質を示されました。他の国であれば国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に、日本国民の皆様は最悪の状況下でさえ静かな尊厳、自信、規律、心の強さを持って対処されました。文化、伝統および価値にしっかりと根付いたこのような卓越した資質の組み合わせは、我々の現代の世界で見出すことはほぼ不可能です。すべての国がそうありたいと切望しますが、これは日本人特有の特性であり、不可分の要素です。このような価値観や資質が、昨日生まれたものではなく、何世紀もの歴史から生まれてきたものなのです。それは数年数十年で失われることはありません。そうした力を備えた日本には、非常に素晴らしい未来が待っていることでしょう。この力を通じて日本はあらゆる逆境から繰り返し立ち直り、世界で最も成功した国のひとつとして地位を築いてきました。さらに注目に値すべきは、日本がためらうことなく世界中の人々と自国の成功を常に分かち合ってきたということです。

 「ブータンには寺院、僧院、城砦が点在し何世代ものブータン人の精神性を反映しています」 ご列席の皆様。私はすべてのブータン人に代わり、心からいまお話をしています。私は専門家でも学者でもなく日本に深い親愛の情を抱くごく普通の人間に過ぎません。その私が申しあげたいのは、世界は日本から大きな恩恵を受けるであろうということです。卓越性や技術革新がなんたるかを体現する日本。偉大な決断と業績を成し遂げつつも、静かな尊厳と謙虚さとを兼ね備えた日本国民。他の国々の模範となるこの国から、世界は大きな恩恵を受けるでしょう。日本がアジアと世界を導き、また世界情勢における日本の存在が、日本国民の偉大な業績と歴史を反映するにつけ、ブータンは皆様を応援し支持してまいります。ブータンは国連安全保障理事会の議席拡大の必要性だけでなく、日本がそのなかで主導的な役割を果たさなければならないと確認しております。日本はブータンの全面的な約束と支持を得ております。

 ご列席の皆様、ブータンは人口約70万人の小さなヒマラヤの国です。国の魅力的な外形的特徴と、豊かで人の心をとらえて離さない歴史が、ブータン人の人格や性質を形作っています。ブータンは美しい国であり、面積が小さいながらも国土全体に拡がるさまざまな異なる地形に数々の寺院、僧院、城砦が点在し何世代ものブータン人の精神性を反映しています。手付かずの自然が残されており、我々の文化と伝統は今も強靭に活気を保っています。ブータン人は何世紀も続けてきたように人々のあいだに深い調和の精神を持ち、質素で謙虚な生活を続けています

 今日のめまぐるしく変化する世界において、国民が何よりも調和を重んじる社会、若者が優れた才能、勇気や品位を持ち先祖の価値観によって導かれる社会。そうした思いやりのある社会で生きている我々のあり方を、私は最も誇りに思います。我が国は有能な若きブータン人の手のなかに委ねられています。我々は歴史ある価値観を持つ若々しい現代的な国民です。小さな美しい国ではありますが、強い国でもあります。それゆえブータンの成長と開発における日本の役割は大変特別なものです。我々が独自の願望を満たすべく努力するなかで、日本からは貴重な援助や支援だけでなく力強い励ましをいただいてきました。ブータン国民の寛大さ、両国民のあいだを結ぶより次元の高い大きな自然の絆。言葉には言い表せない非常に深い精神的な絆によってブータンは常に日本の友人であり続けます。日本はかねてよりブータンの最も重大な開発パートナーのひとつです。それゆえに日本政府、およびブータンで暮らし、我々とともに働いてきてくれた日本人の方々の、ブータン国民のゆるぎない支援と善意に対し、感謝の意を伝えることができて大変嬉しく思います。私はここに、両国民のあいだの絆をより強め深めるために不断の努力を行うことを誓います。

 改めてここで、ブータン国民からの祈りと祝福をお伝えします。ご列席の皆様。簡単ではありますが、(英語ではなく)ゾンカ語、国の言葉でお話したいと思います。

「(ゾンカ語での祈りが捧げられる)」

 ご列席の皆様。いま私は祈りを捧げました。小さな祈りですけれど、日本そして日本国民が常に平和と安定、調和を経験しそしてこれからも繁栄を享受されますようにという祈りです。ありがとうございました。

(参考)産経新聞3/18ブータン国王が100万ドルの義援金

2. 福島で、相馬の海で
 「今回の訪問の重要な目的の一つは被災者の人々と心を一つにすることです」
 国王は生徒らに「竜は私たちみんなの心の中に居て、『経験』を食べて成長します。だから、私たちは日増しに強くなるのです」
 「1人1人の人格を養ってください」 
 王妃は「今日の絆を大切にし、また戻ってきたい。そのときは日本語を勉強してもっと…」
    子供たちと  相馬の海で祈る姿

3. 毎日新聞11/16(cache)国王来日に感慨深く 亡夫が農業指導、最高称号 妻、宮中晩さん会へ

 ヒマラヤの王国ブータンで農業指導に尽力し、同国民にもよく知られている故西岡京治さんの妻里子さん(75)が16日、来日中のワンチュク国王夫妻とともに宮中晩さん会に出席する。金銭的な豊かさの指標となる国民総生産(GNP)ではなく「国民総幸福量(GNH)」を提唱する同国。里子さんは「経済の価値だけが全てじゃない。日本はもう少し、本当に不幸な人を減らせるのでは」と感じている。【池田知広】

 互いに山が好きだった西岡さんと里子さんは1969年に結婚。64年、西岡さんは海外技術協力事業団(現国際協力機構)による最貧国支援計画の一環で里子さんとブータンに行き、高収量をあげる野菜栽培の指導や米の品種改良に努めた。59歳だった92年に現地で病死するまでいかに農民が豊かになるかを考え、実行してきた西岡さん。生前の80年には、英国の「サー」にあたるブータン最高峰の称号「ダショー」が与えられた。外国人への授与は初めてだった。

 「お金の使い方がわからなくて食べ物を手に入れるにも苦労しました」という里子さんも、子供ができて帰国するまでの11年間、現地で暮らした。驚いたのは自給自足と物々交換の生活が成立していたこと。人々は勤勉で、秩序が保たれていた。
 外務省によると、ブータンの1人当たり国民総所得は2000ドル(約15万4000円)足らずだが、05年の国勢調査では国民の97%が「幸せ」と回答した。

 GNHは当時の国王だったワンチュク国王の父が72年に提唱した。日本では最近になってその考え方をもてはやす声がある一方、「貧しい国特有の理論」という意見もある。里子さんは「GNHはドル支配の世界で『お金はなくても豊かに生活している』という国王の世界へのメッセージだった。経済成長を経た日本は今、『お金のない人はだめな人』になっているのでは」と指摘する。

 西岡さんの死後、西岡さんらがまとめたブータンの植物や農業についての書籍に加筆し、15日に改訂版が完成した。国王が日本にいる間に届けるとともに、宮中晩さん会にはブータンの民族衣装「キラ」を着ていくつもりだ。里子さんは「この50年でブータンが立派に変わって国王が日本の宮廷に招かれるのは、ちょっとうれしい気持ちです」と笑った。



4. 「ねずきちの ひとりごと」11/18ブータンとダショー西岡
(改行加工・強調加工のみ、させていただきました。)

 1958年のことです。大阪府立大学農学部に、ある依頼がありました。「ブータンに、日本の農業専門家を派遣してほしい」というのです。
 ブータンは、インドと中国にはさまれた世界唯一のチベット仏教国家です。国民総生産にかわる国民総幸福量(GNH)という概念や、さまざまな環境政策、伝統文化保持のための民族衣装着用など、非常に特色のある国でもあります。
        国旗のデザインが、これまた難しい。
     ブータンの国旗
 要するにブータンという国は、ある意味、非常に閉鎖的に伝統を重視する国家なのであって、そういうところで民衆に溶け込んで、農業指導をする。これはたいへんな仕事です。
 ブータン王国で農業指導をするためには、ブータンの人々の生活の中に溶けこみ、「あの人のいうことなら間違いない」という人としての信頼を勝ち得ないといけないのです。ただ頭ごなしに技術を「教えてやる」方式では、絶対にうまくいかない。

 ブータンの首相から直接依頼を受けた同大学の中尾佐助助教授は、たいへんな依頼を請けたと思うとともに、「あの男なら!」と、すぐにピンとくる者がいました。それが、同学部の学生であった「西岡京治」(当時25歳)です。性格が、穏やか。しかも謙虚。友誼に篤く誠実で努力家。根気と忍耐が予想されるブータンでの生活に最適な男は、西岡京治しかいない!
 中尾助教授は、すぐに西岡京治に相談をもちかけます。もちかけられた西岡京治は、同じ年にネパール学術探検隊に参加しています。彼には、ヒマラヤの自然の美しさと、そこに住む人々の貧しさを見て、自分が彼らの生活をよくすることに少しでも貢献できたら・・・という思いがあった。彼は二つ返事でブータン行きを承諾します。

 1964年2月海外技術協力事業団(現・国際協力事業団)から、西岡に、正式な派遣決定の通知が届きます。西岡は、新妻の里子を伴って、その年の4月に、ブータンに飛びます。昔からそうなのですが、こうした海外協力隊では、たいていの場合、妻は日本に残して、単身で旅立つ者が多いです。最初から西岡が、妻を伴ったということは、彼自身に、妻を愛する心と、ブータンに骨をうずめる覚悟があった、ということです。

 ブータンに到着した西岡は、さっそく開発庁農業局の事務所に出向きます。農業局は、局長も職員もすべてインド政府から派遣されたインド人です。彼らは、自分たちこそがブータンの農業事情を一番知っている、ブータンの農民は遅れていて因習深く、何を言っても始まらないと、ハナから西岡をとりあいません。実際にブータンの農民と接して農業指導を行うにも、その許可さえくれない。
 西岡は、めげそうになる心を振り絞って、政府に働きかけ、ようやく農業試験場内で、60坪ほどの土地を提供してもらいます。そこは、ひどく水はけの悪い土地でした。これでは野菜の栽培すら難しい。要するに「やれるものなら、やってみろ」というわけです。

 西岡が派遣された目的は、農業指導です。荒れ地で、ひとりで栽培をしても、それでは意味がない。それでも西岡は、そこでなんとか頑張ろうと、農業局にブータン人の実習生を要求します。ようやく許可が出て、西岡に実習生がつけられた。その実習生は、なんと12~3歳の子供が3人!
 ここまでされたら、ふつう、怒るかあきらめるかします。事実、いろいろな国から派遣された指導員は、それで怒って帰国している。

 ところが西岡は、笑顔で少年たちと土を耕し、樹木を抜き、水利を図って、日本から持ち込んだ大根の栽培を開始します。畑の耕し方、種の蒔き方、土のかけ方、ひとつひとつを西岡は少年たちに実演し、一緒になって大根を育てた。大根というのは、昼夜の寒暖差が大きいほど、おいしく、よく育ちます。3ヶ月後、それまでみたこともないような、おおきな大根が育ちます。
 実った大根を抱えて見せた子供たちの笑顔が、たまらなく美しかった。
 野菜の栽培は、到底無理、と思われる荒れ地で、西岡は見事に野菜の栽培に成功してみせたのです。

 西岡の成功を喜んだブータン政府は、翌年、試験農場を水はけのよい高台に移してくれます。農業局ではなく、もっと上が動いてくれたのです。耕作地面積も、3倍です。水利がよければ、野菜はますます育ちます。西岡の農場は、狭いけれど、青々とした野菜が見事に育った。
 噂が噂を呼びます。ブータンの知事や議員たちも、西岡の試験農場に視察に来ます。感動したある議員の提案で、西岡は、ブータン国会議事堂前で、試験場で栽培した野菜を展示します。これが、大評判となります。みたこともないほど肥えた野菜です。しかもおいしい。みずみずしい。噂が噂を呼び、ついには国王陛下から、もっと広い農場用地を提供するという申し出をいただきます。後に西岡は、このときの模様を「ブータンに来て、これほど嬉しいことはなかった」と語っています。

 国王から提供された農場は「バロ農場」と名付けられます。「バロ」というのは地名で、ここには、ブータンに仏教を伝えたパドマサンババが空飛ぶ虎の背から降りてきたという伝説が残っているところです。いまでもこの地では、毎年三月に、一年の豊作を願って、人々が様々な民族衣装や動物や鬼などの仮面をつけて、太鼓や管楽器による民族音楽に乗って歌ったり踊ったりします。
 国王は、そういう由緒ある地を、西岡のために提供してくれたのです。ただし、ここは標高2200メートルの高地です。そして西岡のバロ農場は、その後のブータンの農業近代化を一気に加速することになる。まさに、空飛ぶ虎の背(飛行機)から降りてきたバドマサンババ(西岡)が、ブータンの人々の生活を一変させる事業が行われることになります。

 1971年、西岡は、この高地で、米作りに挑戦します。
 日本では田植えというと、縦と横を一定間隔で植える並木植えがあたりまえの習慣ですが、当時のブータンでは、勝手気ままな植え方をしていました。これだと手押しの除草機が使えない。苗の苗との間の風通しも悪い。当然生育も悪い。西岡は、村人たちと再三、並木植えについて相談を持ちかけるのだけれど、「ワシら、昔からこうやってきた」と、とりあってくれません。

 ようやく「やってみよう!」といってくれる農家が現れたのだけれど、もし、並木植えで収穫量が上がらなければ、西岡の信頼は一気に失われます。西岡は祈るような気持ちで、稲の生育を見守りました。
 結果・・・・・
 並木植えの田は、従来型の雑多な植え方の田と比べて、なんと40%もの増産!!
 村人達は、驚き、喜び、バロ盆地では、数年のうちに約半数が、西岡が持ち込んだ並木植え栽培をはじめます。この農法はいまではブータンに広く普及し、ブータン王国の8割の田が、並木植えになっている。

 1970年、西岡は、国王の命によって、シェムガン県の開発に従事します。
 この地は、貧しいブータンの中でも最貧地区・・・というより極貧地区です。焼畑農業が営まれ、収穫量が下がると人々は別な土地に移動します。西岡は、ここに10人のスタッフとともに乗り込んだ。
 しかし、いきなり「よそ」からやってきた西岡の言うことなど、誰も聴きません。成功する保証などないのです。ただでさえ貧しい。ようやっと食べている。先祖伝来の農法を変えることで、万一、収穫が落ちたら、村人たちは飢え死にしてしまうのです。

 西岡の村人たちとの話し合いは、なんと800回に及びます。西岡は根気強く村人たちを説得した。西岡はこのとき、無理に近代化を行うのではなく、あくまで彼らの「身の丈にあった開発」を進めます。いたずらに巨額の開発費用をかけて、たとえば水田に水を引くのにも、重機を用いて水を汲み上げるのではなく、竹などの自然のものを利用して水路を確保した。
 また、木でできたアブナイ吊り橋を、いきなりコンクリート製の近代的橋に掛け替えたりはせず、耐久性のすぐれたワイヤーロープを使って、吊り橋を直した。
 こうして西岡は、360本もの水路を完成させ、17本の壊れかけて危険だった吊り橋を掛け替えます。村人たちと一緒に作った道路は、なんと300kmにも達した。

 そして村人たちと共同で、60ヘクタールもの広大な水田を作った。西岡が来る前までの水田は1~2ヘクタールです。50倍の規模です。同じ人数、同じ労働力、同じ土地で、焼畑農業で農地を転々とさせるのではなく、水路を引き、道を作り、橋を架け、広大な定置農地を確保したのです。
 その広大な農地に、満面の稲が稔ります。ものすごい収穫高です。
 極貧地区は、またたく間に生活が安定します。子どもたちが喜ぶ学校もできます。診療所もできた。村人たちは、定住することができるようになり、生活も安定します。

 西岡たちが村を去る日、集まった全員の村人たちは、「はじめに西岡さんが言ってくれた通りになった」と、涙を流しながら西岡たち一行を見送ったといいます。
       ダショー・西岡
   西岡京治
 1980年、西岡は長年のブータン農業への貢献を評価され、国王から「ダショー」の称号を受けました。「ダショー」というのは、ブータン語で「最高に優れた人」という意味です。この位は、最高裁の判事クラスしかもらえない称号です。ブータンでは最も栄誉ある顕彰です。このとき西岡、47歳。ブータンに来てから16年の歳月が経ってのことでした。そしてその後も12年、西岡はブータンにとどまります。

 1992年3月21日、子供の教育のために日本に帰国していた妻・里子のもとに、電話がはいりました。電話はブータンからの国際電話でした。
 「ダショー・ニシオカが亡くなりました・・・」
 突然の訃報に動転しながらも、「葬式はどうなさいますか」との質問に、里子はとっさに「バロでお願いします。ブータン式の葬式でお願いします」と答えました。ブータンで28年間、ブータン人になりきってブータンのために生き、ブータンのために死んだ夫です。夫は、きっとそう願っているに違いないと、彼女は確信していたのです。
 ダショー・西岡の葬儀は、妻と娘の到着を待って、同月26日に行われました。それは、農業大臣が葬儀委員長を務める国葬でした。ラマの僧侶の読経が山々にこだまします。葬儀には、西岡を慕う5千人もの人々が、ブータン全土から集まりました。ブータンは、国をあげて西岡に感謝の心を捧げてくれたのです。
      ブータンの民族衣装
   ブータンの民族衣装



5. 産経新聞11/19ブータン国王夫妻、金閣寺に感激
 京都市の金閣寺を訪れ、有馬頼底住職(中央)と記念写真に納まる
    金閣寺  金閣寺02

6. 前国王の矜持
 2009/06/21神秘の王国ブータンの旅No9・・・纏め:早島 潮さんの旅行ブログ by 旅行のクチコミサイト フォートラベル

 以下ウイキペデイアからの引用
 1989年2月24日、34歳のジグミ・シンゲ・ワンチュク国王が昭和天皇の大喪の礼参列のため、民族衣装「ゴ」の礼服姿で、数人の供を連れて来日した。他の国の首脳の多くが、日本から経済的な協力を得るために葬儀の前後に日本政府首脳と会談した。しかし、ブータン国王はこうした「弔問外交」を行わず、大喪の礼に出席して帰国した。新聞記者が理由を尋ねると、国王は「日本国天皇への弔意を示しに来たのであって、日本に金を無心しに来たのではありません」と答えた。一方、日本政府はブータンの正装である「刀」を銃刀法違反として預かったため、国王は丸腰のまま葬儀に列席した。ブータン国民は、平民のような姿にされた国王の姿を見て嘆き悲しんだ。

 多くのブログが引用・転載しているトピックスである。上記によると出典はウイキペデイアであるが、現在はこの記載はないので、真偽のほどは不明だが。
 このブログは旅行記ですので、ご興味のある方はリンクをクリックしてください。
 掲載されている以下の記述も興味深いので続いて引用。

 以下産経抄からの引用
23年間にわたって発展途上国の経済開発をサポートしてきた、西水美恵子・前世界銀行副総裁は、数えきれないほどのリーダーと出会ってきた。その西水さんをして、「とことんほれた」と言わしめたのが、ヒマラヤの小さな王国、ブータンの雷龍王3世だ。
 ▼1952年に王位に就くと、翌年に国会を設立するなど、政治改革に取り組んだほか、農奴を解放し、長かった鎖国を解いた。44歳という早世が惜しまれる。弱冠16歳で後を継いだ4世は、国民総幸福(GNH)という理念を打ち出したことで知られる。
 ▼初めて外国紙のインタビューを受けたとき、国民総生産(GNP)よりGNHの方が大切だと、語呂合わせをしたら、定着してしまった。4世は笑いながら、西水さんにそう打ち明けたという(『国をつくるという仕事』英治出版)。
 ▼国民の大多数が王制の存続を望んでいるというのに、4世は民主化をさらに推し進めた。行政権を手放して、首相職を置き、初の総選挙を成功させ、成文憲法の制定へと導いた。何より国民を驚かしたのが、3年前に突然、26歳の皇太子に王位を譲ったことだった。



【つぶやき】
 震災後、初の国賓として実に相応しいお二人でした。励ましと感動を頂き、ありがとうございました。
[ 2011/11/21(月) ] カテゴリ: その他の震災関連 | CM(0)
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