ポストさんてん日記

放射線・エネルギー・環境・化学物質・食品などの情報をアーカイブとして整理すると同時に、徒然につぶやいています。 リンクはご自由に。

【追伸】風評被害の概念から外れる食品放射線汚染問題をどう考えるか?

[ 2011/10/19 (水) ]
●【風評被害02】関谷直也准教授の解説(前篇)
●【風評被害03】関谷直也准教授の解説(後編)
から、“原発放射線による食品汚染問題は風評被害の概念から外れる”という事が判りました。本エントリーはその“追伸”の位置付けです。では、どう考えるか?

1.放射線による食品汚染問題を取り巻く状況

(1) “低線量被ばくの影響(リスク)”を巡っては(強い・弱いを別にすれば)諸仮説がある。
 LNT仮説がすう勢として有力だが、一般的な合意を得て納得できる科学的な結論を出せない。*1
(2) 本質が“リスク論”であり、対応は“個人の考え方”に左右される。
 “リスク論”として捉えたとしても対応がばらつく上に、安全か危険かの“二元論”として捉えられやすい。
(3) 政府への不安・不満・不信、専門家・研究者への不信がある 
 食品安全委員会が評価書案を出したが異論も多いようだ。この先、新しい基準値が出ても“不安”と感じる人たちはかなり存在するだろう。最終的に“個人の選択”に委ねられる。
 一方で、“不信”を払拭する努力をしている姿がみえないのは問題だと思うが・・・
(4) 日本が“情報過多社会”,“安全社会”,“高度流通社会”であること。
 【風評被害02】関谷直也准教授の解説(前篇)の「4項 風評被害が起こる条件」のとおり。
*1関連エントリーLNT仮説ほか、放射線の“確率的影響”を巡る諸説のまとめメモ

2.食品汚染問題への対応のヒント

 以上のような状況の中では、素人がこの問題についてあれこれ考えるのは無理だと思うが、たまたま下記の考え方に巡り合った。個人的には極めて“なるほど”,“そのとおり”と思った次第。
 出典:安斎育郎 立命館大名誉教授
     『増補改訂版 家族で語る食卓の放射能汚染』(p.198~199)

 汚染状況がおおまかにでも公表されれば、当面は汚染の少ない産品を選ぼうかといった選択もできますから、人工放射能は少しでもイヤだと考える消費者は、それなりに選択権を行使することができます。
 「たとえとるに足りない被曝でも私はイヤ」というのもひとつの考え方であって、排斥する理由はなにもありません。もちろん、人工放射能に起因する被曝も自然放射能に起因する被曝も、線量が同じなら受ける影響は同じだと考えられますから、人工放射能を含む食品Aを避けて別の食品Bを選んだら、Bは比較的高い濃度の自然放射能を含んでいて、結果として被曝線量に差がなかったり、かえってふえたりすることもあるわけですが、そこをどう考えるかは、当該消費者の考え方次第です。
 食品を選ぶごとに被曝線量の計算ずくで行動するわけではないでしょうから、人工放射能は忌避したいというその人の生きざまの問題と言えなくもありません。もちろん、「そのような消費行動は、恐れなくてもいいものを恐れている非理性的な行動だ」と批判することはできますし、そのような批判の自由も保障されなければなりません。
 「非理性的なものを信じる自由」も、認められるべきでしょう。
 私は『霊はあるか』(講談社)という本を書き、「霊は、科学的な意味では存在しない」ことを徹底的に論じました。しかし、「科学的には存在しないもの」でも、それを信じる自由はあります。神の実在が科学的に証明されようがされまいが、神を信じる自由はあります。そして、「ありもしない霊を恐れるのは非理性的だ」と批判する自由もあります。
 だから、放射能にえもいえわれぬ恐怖感、不快感を抱く人が、その汚染レベルの高い低いにかかわらず拒否するという消費行動をとることも自由でしょう。同時に、「自然放射線の何十分の一も低い放射能を恐れるのは理性的ではない」と批判する自由も保障されるべきでしょう。
 このような緊張関係こそが、社会が一つの立場に押し流されて崖っぷちに突き進んでいく危険を回避する大切な力だと思います。

 安斎教授については、
“筋金入りの原発批判派だが放射線の人体影響を科学的客観性できちんと論じている”、“背景としてニセ科学を批判するような活動を続けてきた”、という好意的な見方が多いようだ。
 上記の内容は、科学が公式に結論を出せないこの命題に対してどう考えるべきかについて、逆風の中で研究を続けてきた反骨の専門家らしい卓越した結論を出しているのだと思う。同時に、放射線問題については個人としてある程度の勉強が必要、という事も言っていると思う。

3.大きな宿題

 “食品汚染問題”への基本対応が上記のような個人の選択で良いとしても、大きな宿題がいくつもある。
(1) “消費者の選択による生産者の被害”への補償
 まどろっこしいが“風評被害”という言葉を使わない事とした。風評被害かどうか?という論議も必要ないし、風評被害を防止する為にどうするか?などと考る必要もない。
 この補償については、東電によるきちんとした補償しかない。東電という会社を存続させるという意味ではなく早い時期に破綻させるべきと思う。その後は政府による補償となろう。(その方が国民負担が少ないのだから)
(2) 放射線データの公表の仕方の問題
 “情報が消費者に行き着かない”現状をどう改善するか?食品への表示まで行うか?
(3) 給食の問題
 一食分の放射線を丸ごと測るとか・・・*2
(4) 除染基準の問題(食品汚染という本題から外れるが大きな宿題)
 膨大な費用がかかる上に効果についても色々な意見がある除染をどこまで行うかという“除染基準の問題”。政府が今、言っている事は、空手形にすぎないと思うのだが・・・
(5) その他
 つたない頭と情報アンテナでは、思いつかない事も色々あるかと・・・

*2 
(10/26追記)横須賀市では1週間(5日分)の放射線を丸ごと測定
(11/28追記)読売11/28「給食を測定」自治体急増

つぶやき

 福島産の食品を買うかどうかについては、“積極的に買う人”から“東日本産を含めて買わない人”まで、正規分布しているイメージじゃないかと思うのだが、それが真っ当な社会である、という結論で、もやもやしていたものが取れた気がする。
 今回の一連の勉強では、考えさせられる事・得る事が沢山ありました。関谷准教授と安斎教授に感謝。今後も有効な発信を続けて頂きたい。

関連エントリー(新しい順)

●【追伸】風評被害の概念から外れる食品放射線汚染問題をどう考えるか? ←本エントリーです
●【風評被害03】関谷直也准教授の解説(後編)
●【風評被害02】関谷直也准教授の解説(前篇)
●【風評被害01】科学的根拠で判断を 原発の風評被害
[ 2011/10/19(水) ] カテゴリ: デマ風評ゼロリスク不信専門家 | CM(2)
Re: 関谷氏のの本は良くまとまっているとは思うのですが...
拙い記事にコメントをいただき感謝いたします。

この記事は、当時、社会学的な専門家がどのように分析しているのか?について、風評被害をキーワードにして門外漢が勉強したこと思ったことを記したものでした。関連する論説は意外に少なかったと記憶しています。(当時、こちらには時間的な余裕があったのですが)

今では、福島食品に発生した風評被害は、今回の原発事故で起きた “放射線問題に起因する社会現象”の内の典型的な現象の一つで、それらの社会現象は従来定義で類型できないもの、 “リスクコミニュケーション”などで対応を考えることができる範疇を超えたもの、として捉えたほうが良いと感じております。
4年経って、その辺りの論説も増えているようなので読んでみようと思っています。
[ 2015/04/26 07:51 ] [ 編集 ]
関谷氏のの本は良くまとまっているとは思うのですが...
興味深く拝見させて頂きました。関谷氏のまとめは、よくまとまっているので私から言うべきことは殆どないのですが、私は「風評被害」で論文を書いており、思うところがありコメントを書かせてもらいました。

私の論文中でも「風評被害」という言葉は正しくないと書いているのですが“消費者の選択による生産者の被害”の方がわかると思います。“原発放射線による食品汚染問題は風評被害の概念から外れる”というのも、従来の「風評」の扱いからすると確実に外れますから同感です。ただ、そもそも、何の根拠のない「風評」というのはありません。少なくとも薄弱な根拠や不安要因はあるのです。

>福島産の食品を買うかどうかについては、“積極的に買う
>人”から“東日本産を含めて買わない人”まで、正規分布
>しているイメージじゃないかと思うのだが、それが真っ当
>な社会である、という結論で
これも私の認識と同じです。そうした正規分布で、買う・買わないというように結果がはっきりしているの事象は、専門家による「科学的判断」よりも、「集合知」での多様な判断が適していると思う。読まれるのでしたらスロウィッキーよりも西垣通がお勧めです。
しかし、偉い先生方は専門家としての持論を「一般人」に押しつけます。語弊を恐れず端的に言うとその認識のずれが「風評被害」だと考えられます。

関谷氏の指摘で重要なのは「安全」の相対性に言及したことでしょう。それまでの「風評」の扱いでは私の知る限り述べられていません。一方、関谷氏の本に欠けているのは自然科学の知識です。生物学や化学物質の測定に関する記述はかなり酷いのです。

上の安斎氏の指摘にもありますが、評価が真っ二つなのが自然科学の範疇以外のとらえ方です。ただ、安斎氏の引用は極端で、放射能汚染の話題では非理性的とまでは言えないと思います。外部被曝はともかく内部被曝では特定の元素の性質があります。超ウラン元素は肝臓に貯まるので肝臓の一部の細胞ばかりが至近距離で被曝します。だから外部から浴びるのとは違います。セシウムもストロンチウムもそれぞれの元素の特性があるわけです。そうした十分わかっていない確率では表せないリスク(不確実性)をどう捉えるかという問題だろうと考えらます。

不確実性を全く認めない極端な立場が、例えば唐木英明『不安の構造』。唐木氏の本は読んでみると矛盾が色々あってある意味おもしろいのですが、欠けているのが社会科学の視点です。再帰性のない事象を完全無視なのです。社会科学の発展を無視しており、要するに「古い」のですが、ただ、こういう考えは理系の一部に相変わらず根強いので、私は原発事故の遠因だと考えています。

関谷氏は相対性を持ち出したのですが、結論が何とも言えません。科学をどの範疇で捉えるかが、震災後にぶれているようにも見えるのです。
あと、
>風評被害は関心の低い人、危険視する人によって引き起こされる。
と彼は書いていますが、2012年以降マスコミは食品中の数値さえ言わなくなりました(500ベクレルを超えていてもです)。大々的に報道しているとはとても言えません。しかし「風評被害」は続いています。関心が低い人は気にしない状況ですが、どう説明するのかお会いする機会があれば聞いてみたいところです。

長文、失礼しました。
[ 2015/04/24 23:13 ] [ 編集 ]
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